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キングダムの日常について

実はイケイケ!?史実の龐煖の意外な真実

こんにちは蜻蛉です

最近、龐煖について意外な内容の話を聞いたので投稿してみました。

 

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 (https://goo.gl/images/0xkP0y)

 

 

【出生と若い頃】

紀元前四世紀末に趙で誕生。

若い頃、楚の深い山奥で道家(思弁的哲学者)の隠者の1人であった、鶡冠子(けつかんし)のもと学問を学んだ。

若年の頃から軍事に強い興味を持ち、師への質問も「天」と「武」の関係を問うものが多い。

後に燕に移って将軍となる劇辛とかなり親しくしていた。

また、弁舌に長け様々な著書がある。

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(https://goo.gl/images/IT9AZT)

 

【戦歴】

以下はWikipediaなどのサイトにある戦歴です

『趙悼襄王三年(紀元前242年)、燕を攻め、将軍の劇辛を捕虜とする。なお、『史記』「六国年表」「燕召公世家」では、旧友である劇辛の側が龐煖を侮って趙を攻めたことになっており、龐煖はこの戦いで劇辛を敗死させ、燕軍二万を捕虜にしている。

趙悼襄王四年(紀元前241年)、趙・楚・魏・燕の四箇国の精兵を率いて秦の蕞を攻めたが、陥落させる事ができず、そのため兵を移して斉を討ち、饒安を取る。
「六国年表」「楚世家」「春申君列伝」等によれば、同年に楚の春申君が五箇国の合従軍を率いるも函谷関で敗走しており、これと連携した動きだったと思われる。


なんか凄いですね…

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(https://goo.gl/images/IT9AZT)

 

«続き»

 

「趙悼襄王九年(紀元前236年)、趙軍は燕を攻めて貍と陽城を取るも、その隙をついて秦の王翦・桓齮・楊端和が趙を攻め鄴や閼与などを落とす。
韓非子』飾邪篇によれば、この際、燕への遠征軍を指揮していたのは龐煖であり、秦軍侵入の報を受けると軍を移して南に急行するが、既に鄣(漳河一帯)は陥落した後であった。
この年、悼襄王が崩御し、子の幽繆王が即位する。

が、幽繆王の代では用いられなかったらしく、以降、龐煖の活動の記録はない。」

案外短いですね

 

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(https://goo.gl/images/xIcRHs)

 

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(https://goo.gl/images/e1GqyQ)

 

【将軍としての道】

恵文王と孝成王の治世下では50年以上に渡りあまり国事に参与しなかったようであるが、
悼襄王の代で転機が襲来する。

紀元前245年、王の失策により歴戦の将軍である廉頗と楽乗が同時に出奔してしまう事件が起きてしまうのである。
そのため、王は急遽龐煖を将軍として抜擢することにした。

はじめは将軍として無名で侮られていた龐煖であるが、
燕将の劇辛を伐つなどして瞬く間に名声を挙げ、戦国時代最後の合従軍の長も務めた。

当時戦国第1の名将であった王翦も彼との直接対決を避けていたようであり、理屈だけではなく本当に戦上手であったと思われている。

 

【逸話】

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(https://goo.gl/images/vpIF5b)

ある時、趙の武霊王に召し出され、孫子のとある兵法について意見を問われて兵家と道家の両方の知識を用いて解説を行った。

龐煖との会談の前後は一切不明であるが、実際に武霊王は考えなしに攻めるのではなく胡服騎射(北方の遊牧民族が使っていた戦法のひとつで、戦士が直接1頭の馬に乗って弓を引いた)などの軍事改革を行ったりすることで趙を軍事大国にしている

 

以上です。閲覧ありがとうございました